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雑感

TwitterがXになり、タイムラインは時系列ではない何らかのアルゴリズムによる投稿が並び、広告も際限なく流れ、フォローしたい人の動向がわからなくなった。自分の投稿も同じく見られなくなった。元々見られようが見られまいがどうでもよいが、金を払わないと不自由にしてやる、広告を浴びせてやるという思想を隠さないX社への反感は次第に高まり(人より随分遅れているが)逃げ先を考える。threads、blueskyにアカウントを作りながらも何も書かぬうちにmixi2というのも現れ、足踏みしている。ちょっとした感想、雑感を残したいだけなので試しに自分のところに書く。

広告

バーネイズの「プロパガンダ」未読なので読みたい。絶版で買えないが、図書館にあるだろ。学生の頃、広告代理店のアートディレクターは格好良くみえたものの、「広告の仕事は清濁併せ呑めるタイプでないとできない」「好きでもないモノの片棒は担げない」と思っていた。今もその気持ちは変わらない。むしろ広告の邪悪さは昔より増して、どんな日常にも滑り込んでくるものになったし、「プロパガンダ」の力もいまだ強い。人類そうそう変われない。毒の作り方を心得ておこないと、解毒しようとも思えなくなるだろう。

「百年の孤独」読んだ。

非現実的な出来事が平気な顔して連続して起こるが、割とすぐその世界に慣れる。マジック・リアリズムというらしい。「冗長」とは基本的に悪口だが、この本は、繰り返される名前や世代を超えて起こる反復に酔ってくるような、冗長の良さがある。ページを埋め尽くす文字の沼から、不快なのに抜けたくないような気持ちがおこった。読んでこんな気持ちになって楽しいわけでもないが、音楽や文学などの芸術以外に精神の途方もなさを教えてくれるものはない。音楽だったらファウストかな、とか思って久々に、It'a rainy day, Sunshin girlの反復を聞いた。

「仮設:説と検証」見た。

展示をどうつくるかの展示。そしてインストーラーによるトーク。壁の立て方、絵のかけ方、展示台の作り方の実際。最近は各美大でインストールの授業があるらしい。知らない知恵が色々あり楽しんだ。しかし展示台くらいはともかく、作家になっていく過程のどこで壁を立てたりするんだ?と不思議な気持ちに。その後、美大でてインストーラーなるのは作品つくらない美術予備校講師になるような痛さがある、などという揶揄をどこかから耳にした。賛成も反対もなく「ふーん」と思う。

オノシュンスケ新作聴いた。

ジャズギターとワウっぽいミャウミャウシンセの融合ははじめての感触。かなり革新的な音像では?

Oh Babe, What would you say? で途中からピッチベンドで出てくるシンセ音に鳥肌がたった。
古い時代の音楽をサンプリングする人は多いが、多くは現代的に使い直すわけで、オノ氏のようにあの時代の音楽のもつ優しく円やかな良さを、異なる音を使って拡張する人は少ない。

丸く磨かれた音で練り上げた電子音楽といえばレイハラカミだけど、シュンスケオノのこのアルバムはもっと優しい響き。「うるさくない音楽」は実はアンビエントやフォークしかなくて、こういう静かな、少しユーモアあるポップ音楽は希少だ。

インタビューを読むとこのアルバムは亡くなった愛猫へ捧げられたものだった。カバー元の曲はみなラブソングだがそれをインストにしているのが面白い。「again」にいたっては歌のメロディさえ抜いている?白黒ギターは猫の模様を模したらしいが、「again」の副旋律として鳴るミャウシンセも鳴き声を模しているようで、もしかしたら自分の歌と猫でデュエットしたかったのかもしれない。そこまでいくと異常さを感じる。ともあれ、あの時代の甘く惜しみないラブの歌は、現代のヒトに対して素直に歌えるものではない。動物にむけるほうがむしろ違和感がないってのが面白い。

オードリー・タンの記事読んだ。

コロナあたり、本が出るたび読んだが最近忘れていた。急峻な対立を避ける形での民主主義というのがこの方の思想の新しいところで、実現できているように語るが実際どうなのか具体的に知りたい。米共和党と民主党のように、情報が分断されそれぞれが「真実」を持つと歩み合うことがより困難と感じる。縄文時代のコミュニティや「忘れられた日本人」に出てくる村のトラブル時の対処、利他とかアナキズムの相互扶助への興味が常にあり、違う人間が集まって生活することの成功例を知りたいのだと思う。

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